「円滑化法」が施行される前に、資金繰り維持のためA社が取引金融機関にお願いしたリスケは、「3年間の元金返済棚上げ」でした。構造改革を図る3年間は、「元金返済無で、利息だけにして!」というものでした。
昨日も少し触れましたが、A社の取引行は当時7行もあり、それぞれの立ち位置が違う(例えば貸出量や取引年数、従業員取引等の取引上の厚み等々)ため、折衝窓口に立つ各行の担当者は「本部の意向」や「A社のためにならない」とか、中には「メイン行に面倒を見て貰いたい」(メイン寄せと言いますが)など勝手な事を賜(のたまわ)っておりました。
彼らの頭にあるのは、「A社のため」と言いながら、その実銀行のためだったり、もっと言ってしまうと「管理担当者」としての自分の責任だった筈です。
リスケの申出をした後で返済口座への入金を止めるなど、半ば強引に「弁済条件変更」を認めて頂いたのですが、その反面、「合理的且つ実現性の高い」経営改善計画の提出と実行を強く求められる結果となりました。
まぁ予想通りの反応です。
需要が激減した業務をたたみ、申し訳ない気持ちを押し殺しながら従業員の退職勧奨を進め固定費を削減、空いた工場や倉庫を外部に売却したりして借入債務を圧縮して行く、ほぼ教科書通りの計画を纏めました。
一方、社外に修行に出ていたA社長の実弟を社内に呼び寄せ、実弟を中心に新たな事業分野へ進出するための投資も行います。
ほぼ「業種転換」に近い決断をこの時にしたことが、A社を救いました。
今ではA社売上の60%が、この時に立ち上げた事業分野でのものです。
債権者(金融機関)には、事業転換(新事業の立ち上げ)・リストラ(事業・財務)を骨子とした計画を提出しましたが、3年間の元金棚上げは「あまりにも長すぎる」との理由で、当面1年間の返済猶予を認めて貰う事で、双方が合意することになりました。
その後、リーマンショックや東日本大震災が起き、A社は再び試練の時を迎えます。
特にリーマンショック後、しばらくして「従業員に辞めて貰って廃業しようかと思います」とA社長が口にされたこともありました。
「あの時はホントにしんどかった」と、今でも社長は時々口にします。
私もその当時は「(廃業も)已む無しかなぁ」と思っていました。
がっ、その時に歯を食いしばって何とか耐えたご褒美が目前に迫っていた事を、当時の私達は全く気付いていませんでした…。
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